つきさっぷ郷土資料館は、昭和60年に開館しました。
ここには、つきさっぷの歴史を物語る貴重な品々が数多く展示されています。










建物について

本資料館はもともと、昭和16年に旧陸軍北部軍司令官(後に第5方面軍司令官)の公邸官舎として建築されました。月寒にあったレンガ工場などのレンガも用いた重厚な造りで、内部の主階段の柱はコリント様式で、アカンサス(Acanthusアザミ属)の葉を逆さにした形の飾りがつけられています。

ー 館内の展示物の一部をご紹介 ー

広がるまち

1. 明治4年の月寒入居地(展示図)

明治4年に岩手県人185人が「つきさっぷ」へ入りました。ミズナラなどの生い茂る地を伐採した人達の家屋の貴重な配置図。これこそが、つきさっぷの礎です。

2. 昭和11年のつきさっぷ
(ジオラマ)

現在の国道36号線周辺の軍の敷地、官舎、演習場の配置とそれを取り囲むように点在する農家の名前が示されています。つきさっぷは、軍を中心に農、商家から構成されている様子がよくわかります 。

3. 発展するつきさっぷ地域の変遷
(航空写真)

昭和23年、昭和41年、昭和59年、平成15年の月寒の航空写真です。(65㎝×104㎝)

軍のまち

1. 旧日本陸軍第7師団歩兵第25連隊の軍(後に第5軍)記録

①各種の軍用銃(例 99式小銃、三八式歩兵銃、三八式騎兵銃他)
②従軍手帳
③兵や将校軍での服装、鉄兜など

2.昭和11年に昭和天皇のもと実施された第7師団(北海道)と第8師団の対抗軍事演習の記録

なかでも、演習後に月寒の第7師団第25連隊敷地内(現月寒高校グランド)で昭和天皇、各皇族方、軍上層部、将校団が並ぶ記念写真は、歴史的価値が高い。北海道大学の渡辺浩平教授の最新著「第七師団と戦争の時代・帝国日本の北の記憶」の表紙は当資料館の展示写真を精密複写したものです。

3.樋口季一郎将軍の遺品や直筆の書

北鎮を旨とする大日本帝国第7師団最後の司令官樋口季一郎中将由緒の直筆の書や品々。
樋口季一郎将軍は、ナチスドイツの迫害を逃れてソ連領オトポールで立ち往生していた数万人のユダヤ人難民に満州通過を認め、逃避させました。また昭和18年アッツ島玉砕後、隣接するキスカ島からの無血撤退に際し、兵員を短時間内で救援海軍艦艇に収容するため、当時としては異例の携行している銃などの海中投棄を許可したことで5000名の兵員の奇跡の撤退に導きました。さらに昭和20年8月15日終戦後の8月18日に突如占守島に侵入したソ連軍に対し断固撃退せよとの命令をここ月寒から発し、侵攻したソ連軍との激闘の末、これを撃退する。これはその後のソ連による北海道分割、日本分割要求を阻止することになリました。

まちの営み

1.つきさっぷを縦断する札幌本道(現室蘭街道、国道36号線)を挟み商店が並ぶ古い街並み

戦後、一般庶民や農家の人口増を支える商店が旧軍敷地内に通称新町通りなどに進出し新しい月寒の商店街となりました。それらの街並みや旧商店街などの写真には酒屋、米屋、蹄鉄屋や新しい消防署などが映されています。

2.建設中のアンパン道路

月寒と平岸を結ぶアンパン道路は、月寒の第25連隊の兵士の労務出動によって開かれました。役場所在地となった月寒と発展する平岸地区を結ぶ重要なルートとしてつくられ、現在も大切な道路となっています。

3.定山渓鉄道の思い出を物語る品々

豊平地区と定山渓地区を結ぶ通称「定鉄」で実際に使われていたもので、マニアには見逃せない品々が展示されています。

つきさっぷ郷土資料館 概要

住  所:札幌市豊平区月寒東2条2丁目3-9
電  話:011-854-6430
開  館  日:4月~11月の水曜日、土曜日
公開時間:10:00~16:00
入  館  料:無料
アクセス:地下鉄東豊線月寒中央駅1番出口から徒歩15分
 

つきさっぷ郷土資料館

つきさっぷ郷土資料館は、昭和60年に開館しました。ここには、つきさっぷの歴史を物語る貴重な品々が数多く展示されています。

建物について

本資料館はもともと、昭和16年に旧陸軍北部軍司令官(後に第5方面軍司令官)の公邸官舎として建築されました。月寒にあったレンガ工場などのレンガも用いた重厚な造りで、内部の主階段の柱はコリント様式で、アカンサス(Acanthusアザミ属)の葉を逆さにした形の飾りがつけられています。

館内の展示物の一部をご紹介

広がるまち

1. 明治4年の月寒入居地
(展示図)

明治4年に岩手県人185人が「つきさっぷ」へ入りました。ミズナラなどの生い茂る地を伐採した人達の家屋の貴重な配置図。これこそが、つきさっぷの礎です。

2. 昭和11年のつきさっぷ
(ジオラマ)

現在の国道36号線周辺の軍の敷地、官舎、演習場の配置とそれを取り囲むように点在する農家の名前が示されています。つきさっぷは、軍を中心に農、商家から構成されている様子がよくわかります 。

3. 発展するつきさっぷ地域の変遷
(航空写真)

昭和23年、昭和41年、昭和59年、平成15年の月寒の航空写真です。(65㎝×104㎝)

軍のまち

1. 旧日本陸軍第7師団歩兵第25連隊の軍(後に第5軍)の記録

①各種の軍用銃(例 99式小銃、三八式歩兵銃、三八式騎兵銃他)
②従軍手帳
③兵や将校軍での服装、鉄兜など

2.昭和11年に昭和天皇のもと実施された第7師団(北海道)と第8師団の対抗軍事演習の記録

なかでも、演習後に月寒の第7師団第25連隊敷地内(現月寒高校グランド)で昭和天皇、各皇族方、軍上層部、将校団が並ぶ記念写真は、歴史的価値が高い。北海道大学の渡辺浩平教授の最新著「第七師団と戦争の時代・帝国日本の北の記憶」の表紙は当資料館の展示写真を精密複写したものです。

3.樋口季一郎将軍の遺品や直筆の書

北鎮を旨とする大日本帝国第7師団最後の司令官樋口季一郎中将由緒の直筆の書や品々。
樋口季一郎将軍は、ナチスドイツの迫害を逃れてソ連領オトポールで立ち往生していた数万人のユダヤ人難民に満州通過を認め、逃避させました。また昭和18年アッツ島玉砕後、隣接するキスカ島からの無血撤退に際し、兵員を短時間内で救援海軍艦艇に収容するため、当時としては異例の携行している銃などの海中投棄を許可したことで5000名の兵員の奇跡の撤退に導きました。さらに昭和20年8月15日終戦後の8月18日に突如占守島に侵入したソ連軍に対し断固撃退せよとの命令をここ月寒から発し、侵攻したソ連軍との激闘の末、これを撃退する。これはその後のソ連による北海道分割、日本分割要求を阻止することになリました。

まちの営み

  1. つきさっぷを縦断する札幌本道
    (現室蘭街道、国道36号線)を挟み商店が並ぶ古い街並み

戦後、一般庶民や農家の人口増を支える商店が旧軍敷地内に通称新町通りなどに進出し新しい月寒の商店街となりました。それらの街並みや旧商店街などの写真には酒屋、米屋、蹄鉄屋や新しい消防署などが映されています。

2.建設中のアンパン道路

月寒と平岸を結ぶアンパン道路は、月寒の第25連隊の兵士の労務出動によって開かれました。役場所在地となった月寒と発展する平岸地区を結ぶ重要なルートとしてつくられ、現在も大切な道路となっています。

3.定山渓鉄道の思い出を物語る品々

豊平地区と定山渓地区を結ぶ通称「定鉄」で実際に使われていたもので、マニアには見逃せない品々が展示されています。

つきさっぷ郷土資料館 概要

住  所:札幌市豊平区月寒東2条2丁目3-9
電  話:011-854-6430
開  館  日:4月~11月の水曜日、土曜日
公開時間:10:00~16:00
入  館  料:無料
アクセス:地下鉄東豊線月寒中央駅1番出口から徒歩15分